1912年(大正元年)、葛利毛織工業株式会社は木曽川沿いの一宮市木曽川町で創業した。老舗毛織物メーカーの葛利毛織工業は、ションヘル織機という1950年頃に日本国内で普及した日本産の低速織機を扱い、他社には真似のできない高付加価値のさまざまなテキスタイルを作ってきたメーカーである。葛利毛織工業の工場は昔懐かしい木造の建物で、ノコギリ屋根から入る自然光が年期の入った織機たちをライトアップしていて、なんとも神秘的な空間である。そこに低速で動く多数のションヘル織機たちが、1台1台オリジナルなリズムで機音を刻んでいるので、まるで生き物であるように感じる。
ションヘル織機とは、生地を織るときに緯糸を左右に運ぶために「シャトル=杼(ひ)」を用いる旧式のシャトル織機の一種で、多くの機屋たちは近代化の中で、生産性の低いシャトル織機を廃棄してエアジェット織機などの革新織機と呼ばれる高速型の織機を導入してきた。手織りで始まった機織りに、開発された動力がインストールされ、無人で動くようになり、スピードと生産性を追い求め、新しい機械にアップデートしていくのは自然の流れである。
しかし、葛利毛織工業は手織りに近い旧式のションヘル織機に大量生産にはない可能性を見出した。「生産性を求めて高速化が進む中で、機屋の作るウール織物が均一化されていくのを感じ、危機感を感じました。弊社は、ウール素材の風合いを最大限に生かした独自のものづくりに磨きをかける道を選びました」と会社の指針を決定付けた当時を振り返るのは、葛利毛織工業3代目の葛谷幸男社長。難しい注文にもとことん向き合い、成果を出す。その結果、葛利毛織工業の作り出すその風合いこそが、国内のデザイナーズブランド、テーラー、ヨーロッパのトップメゾンのバイヤーたちが惚れ込んでいる点である。
葛利毛織工業の工場では10台のションヘル織機があり、経糸の準備、必要な長さの経糸を巻き取る「整経」工程、経糸を上下に開く器具に通す「綜絖通し」工程、テキスタイルの幅を整え緯糸を打ち込むための器具に経糸を通す「筬通し」工程、緯糸の準備、製織、検反の工程を行う。全て職人による手作業で、織り始めるまでに10日ほどを要する果てしない準備作業である。また、最新の高速織機だと1日に数百メートルを織りあげることができるのに対し、ションヘル織機は50mを織るのに3〜4日を要する。
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葛利毛織工業4代目の葛谷聰専務は取材中に何度も「ウールは生き物です」と口にする。経糸も緯糸も必要以上の張力をかけずにゆっくりと織ることがウール素材の持つ風合いを失わない為には必要で、ウールはションヘル織機と相性が良いのだと言う。呼吸するウールにとってこうやって時間をかけて仕上げていくことも、ウールがリラックスした状態を保つために必要だそうだ。また、葛利毛織工業の求める高密度織物を実現するには、ションヘル織機特有の大きな開口に織り込むことができる、ということも重要なポイントである。
また、綜絖枚数は多ければ多いほど複雑な組織を表現することができるが、一般的な枚数は8枚であるのに対し、葛利毛織工業では16枚、20枚、22枚、24枚と綜絖数の多いションヘル織機が動いている。これらが葛利毛織工業独自の細かくて複雑なテキスタイルを生んでいる。
葛利毛織工業の工場内には、1932年にいち早く導入されてからずっと動いているションヘル織機がある。85年以上も働き続けている。部品が壊れたときもすぐには新しいものに取り替えず、産地内の鍛冶屋さんに修理に来てもらい、丁寧にメンテナンスをしながら、ションヘル織機は働き続けてきた。というのも、ションヘル織機自体も糸が通る接触面が滑らかになったり、機械によって素材や番手に対して得意不得意が出てくると言う。そんな話を聞いていると、ションヘル織機もまるで生き物のような気がしてくる。
そんな温度感溢れる葛利毛織工業で働くことを希望する若手社員も年々増えている。葛谷聰専務は「2012年に100周年を迎えたので、あと100年は続けていきたい」と決意を聞かせてくれた。量ではなくとことん質を追いかけた毛織物で、世界中の真の本物思考を唸らす葛利毛織工業のウールテキスタイルから目が離せない。
葛利毛織工業のオフィシャルサイトはこちらから。